ハワイ部分(?)日食報告

 

 そう、あれは約一年前の事であった。所属天文サークルのリーダーが、「ハワイに日食を見に行こう!」と言う言葉から始まった。私もかつてから、皆既日食を見に行きたいと思っていたので参加する事にした。特に、ハワイで見られるのは、魅力的であった。万一、日食が見られなくても、「観光や遊びが出来る」と思った。それからしばらくは、そんな事は忘れて毎日の生活していたが、1991年の4月に、日食説明会があってからだんだん気分が盛り上がり始めてきた。ところがここで一つの問題が持ち上がった。始めは、所属天文サークルのメンバー約4名で行くはずであったが、仕事の都合上、次々とキャンセルになり、ついには発起人のリーダーまでがキャンセルして、所属天文サークルで行くのは私一人となってしまった。一人で行く事自体は、余り苦にはならないのだが、日食の写真を撮ってこなければならないような雰囲気になってしまった。最初、みんなで行こうと思っていたときは、ボーと見てこようと思っていたのに。結局、重い赤道儀を、一人で担いでハワイまで行く事になってしまった。以下は、聞くも涙、語るも涙の、ハワイ部分日食観測記である。

 

 1991年7月8日(月)

  朝から暑い日であった。NDフィルタを借りにリーダー宅に行った。リーダーから、最後の注意指示を受けた(気分は、スパイ大作戦のフェルプス君であった)。さっそく、NDフィルタを持ち帰り、撮影の予行練習を行った。最初、赤道儀が太陽を上手く追尾しなかったが、モードラが逆の位置に付いていたのが原因であると判った。予行練習の重要性を痛感しテストを終えた。しかし、この時のフィルムの現像は、出発前までには、間に合わなかったので、ピントや露出に不安を残したまま、日食に臨む事になった。夜は、機材以外の荷づくりに大藁はであった。

 

1991年7月9日(火)

 少し遅めの朝食を終え、荷物の最終チェックをした。荷物は、赤道儀、スーツケースと、手荷物の3つとなってしまい、とても一人で持てる物ではなかった。どうにか荷物を持ち、一人寂しく、成田エクスプレスの待つ新宿駅に向かった。ホームで一人佇んでいると、階段の方から、交流天文サークルの友人がやって来るではないか。地獄に仏は、まさにこの事である。しかし、友人はグループで来ているらしく、私は、一人で電車に乗り成田に向かった(後での話だが、ここでもう少し密に話していたら、ハワイでも友人に会えたかも知れない…残念!)。成田に着いて、リーダーの職場の同僚の人々と合流。同僚の人々と合流出来た事で、一人の寂しさから救われた。定刻より少し早めの午後6時40分、ノースウエスト機で成田を出発し、一路ハワイのホノルルへ向かった。

 

1991年7月9日(火)−ハワイ時間

 ホノルル空港に9日午前7時に到着(時差−19時間。要するに日本の前日の+5時間)。入国審査場で同僚の人々と合流。すぐに国内線乗り場移動し、ハワイアン航空で、ハワイ島のコナへ飛ぶ。ハワイ島は、ハワイの中では、いちばん大きい島でホノルルから、約1時間で到着。コナ空港からバスで、宿のコナ・サーフホテルに向かう。途中の景色は、火山島(マウナケア・マウナロア)らしく、見渡す限り火山石であった。ホテル到着後、時差ボケのせいですぐ寝てしまう。同室の人は、東京理科大天文部OB会の足立さんと言う方で、もう何十回と日食を見に行っている方であった。とても気持ちの良い、紳士な方であった。足立さんは、30名ぐらいのグループで来られたそうである。夕方、同僚の人々と、コナの街に出て夕食をした。味は、大した事なかったが、海に沈む夕日がとても綺麗であった。ホテルに帰り、機材のチェック。夜晴れていたので、固定撮影用機材を持って外に出た。星は驚くほど綺麗ではなかったが、やはり日本とは比べものにならない。高い位置の、さそり座を何枚か撮って、ベッドに着いた。(結局、南十字星は、見つける事が出来なかった。)

 

1991年7月10日(水)−ハワイ時間

  朝6時に起きて日食観測の下準備。実際の皆既日食と同じ時間(7時30分頃)に、太陽の位置を見てみる。部屋のベランダが、東の方向に向いているので、部屋から日食の観測が可能な事が判った(但し、北極星が見えないと思われた)。高度20度〜30度といっても以外と位置は高く、現場での観測でも障害になる物はまずないと思った。朝食(御飯、海苔、味噌汁…日本に居るのと変わらない)を取り、同僚人々とコナの街に出た。港でグラス・ボート(船の下がガラス張りなっていて、海底や魚を見る事が出きる船。)の看板を見つけたので、予約をして店に買い物に行く。街中、日食のおみやげグッズで一杯であった。私も、マグカップとTシャツをおみやげに買った。ほとんど通じない英語を使い、昼食を取り、午後2時からグラス・ボートに乗った。約1時間、海底散歩を楽しんだ。女の子3人組の日本人が同乗していたが、一人の子がひどい船酔で大変であった。宿に帰り、機材の最終チェックを行った。宿には、法政大学天文部時代の友人(同じツーアーの別のコースに参加)も宿に着いていた。彼としばらく打ち合わせた後、日食に備えて夜まで仮眠を取った。午後11時モーニングコール(?)がかかり、バス10台に分乗して、観測地のコナ・ゴルフ・ビィレッジに向かった。ホテルでも観測可能であったが、晴天率が高いという事で、わざわざゴルフ場まで出かけて行った。ところが、観測地に行く途中、なんと私の乗っているバスが、エンジンの故障で動かなくなってしまった。これで一瞬、「道端で観測か?」と思ったが、なんと不思議な事に、スペアーのバスが真後ろにいるではないか。すぐにスペアーのバスに乗り込み、無事観測地に到着した。

 

1991年7月11日(水)―ハワイ時間

 

 午前2時頃、観測地に着き、早速、大学時代の友人と赤道儀セッティング場所を捜す。協栄さんが南北に線を引いて置いといていたので、その上に赤道儀を置く。回りは、十分なスペースが取れた。以外と、赤道儀を持って来ている方が少なかった。同僚の人々も場所を決め陣取っていた。極軸を合わせようとしたが、雲で北極星が見えず、空をボーと見ているうちに寝てしまい、起きるともう回りが明るくなっていた。空は曇天であった。この時は、皆既の時は、晴れるだろうと信じ込んでいた。結局、正確に極軸合わせができなかったので、追尾が心配であった。ところが、日の出時刻を過ぎても、太陽が出てこない。そうこうしている内に、第一接触時刻を過ぎても、太陽が出てこない。しかし、太陽が40%ぐらい欠けた頃、太陽が薄雲を透して見え始めた。これで行けると思い、当初の予定通り、観測を始めた。薄雲がかかっているため、サングラス無しでも日食がよく見えた。おかげで(?)、部分日食のビデオ撮影がフィルタなしで始めることが出来た。第二接触5分前当たりからまた雲が濃くなりはじめ、な、な、なんと第二接触が雲で見られなかった。皆既中も雲が太陽を覆い、日食が全く見られなかった。第三接触終了、1分後ぐらいから、皮肉にもまた太陽が出始めた。そして呆然としている中、第四接触が終り、怪奇日食は終わった。本当に運が悪いとしか言いようがない。曇って太陽が見えなかったのは、本当に皆既の時数分だけであった。部分日食は、ほぼ全部見えた。結局、私は、ハワイまで部分日食を見に来た事になった。ゴルフ場の芝の上で、大学時代の友人と朝食を取り、機材を片付けて、重い足取りで宿に帰った。

  目を覚ますと、もう午後だった。簡単に昼食を済まし、ホテルのプールで日光浴をした。日食が見えたら、どんなに気持ちよくこの時間を過ごせただろうと考えながらプールサイドで寝ていた。夜になり、残念パーティーが開かれた。静かに、ハワイの夜は更けて行った。

 

1991年7月12日(金)−ハワイ時間

  朝早くからたたき起こされ、ホノルル行きの飛行機に乗り込む。コースの違う友人達とは、ここで名残ほしい別れであった。朝10時頃、ホノルル空港に到着。バスで市内観光をした後、昼食を取る。午後は、チェックインまで自由行動なので同僚の人々とDUTY・FREE・SHOPで買い物をした。その後、私だけは、日本でリーダーと予約していたサンセット・クルーズに、一人で出かけた。行く前から嫌な予感はしていたが、まさにその通りとなった。回りは、アベックばかり。独りでいると、恥ずかしくなった。しかし、私の気持ちとは裏腹に、夕焼けは、悲しいばかりに綺麗であった。仕方がないので、アベックに写真を取って挙げてばかりいた。宿のワイキキ・ビーチ・ホテルに帰り、同室の足立さんと日食に付いて語り、ワイキキの夜は更けて行った。

 

1991年7月13日(土)−ハワイ時間

 またまた、朝早くから起こされ、同室の足立さんとも別れを惜しむ。ホノルル空港に着き、出発便を待つ。散々だった、ハワイの思い出を胸にホノルルを発つ。

 日本時間7月14日(日)午後1時、成田に到着。両親が成田まで迎えにきてくれていた。木下家の人々ともここで別れを惜しんだ。成田エキスプレスにて、午後4時無事帰宅。

 

  機材に付いて

 

  今回機材のほとんどを、リーダーからお借りした。赤道儀には、高橋のスペース・ボーイを使用した。専用ケースが付いていたが、余り専用でなく、収納が結構面倒であった。移動する事が多い場合、ケースの重要性を感じた。鏡筒には、口径50ミリ、焦点距離400ミリの屈折に、テレコバンダーを使用し焦点距離を上げた。今回は、コロナをメインと考え、焦点距離を、約800ミリ、Fを16にして使用する事にした。今回の様に部分食撮影になった場合、800ミリでは少し物足りないと感じた。1000ミリぐらいにしないと、太陽像が小さすぎる。最初は、テレコバンダーにNDフィルタを装着していたが、後で鏡筒本体に55ミリのフィルタが装着できる事が判り、本番でも本体に装着する事にした。これで、部分食中と皆既中のフィルタの取り付け・取り外しがスムーズに出来るようになった。カメラは、ニコンF3にワインダーとデータパックを取り付けた。やはり、日食のような短期決戦の現象には、これらが必要だろう。ピントは、視度調整付きファインダーでなるべく正確に合わせた。シャッターは、電子レリーズを用いてぶれを少なくした。また今回、赤道儀に家庭用ビデオも同架した。ズーム最大に1.8倍のテレコバンダー1.5倍を装着した。日食の様な動きのある現象では、ビデオは欠かせない。

 

 撮影に付いて

 やはり、一番悩んだのは、フィルムの選択であった。ネガかリバーサルか。今回は、リーダーさんの薦めもあって、リバーサルにした(リバーサルでもダイレクトプリントで写真にできる。)。ヴェルビア(ISO50)と、コダクローム64の両方を持って行ったが、本番ではヴェルビアを使用した。シャツタースピードは、戸田さんの日食撮影資料を参考させていただいた。しかし、前記の通り当日は、雲があったので、予定の前後2段ぐらいのスピードで撮影した。

 

 留意事項

(1)望遠鏡のファインダーに、サングラスを付けておくと、便利である。

(2)太陽撮影の時、写真の東西を確認することを、忘れずに。

(3)ピントは、部分食中に合わせておく。

(4)NDフィルタをあまり強く締めると、熱で外れなくなる事があるので注意する。

(5)フィルムは、長巻きで返却してもらう。

 

    余談になるが、日食の時など、いくつものツアーが企画されるが、やはり幾つものツアーを重ねて予約しておき、説明会などを聞いてから、正式にツアーを決めるのがよい。キャンセル料を取られる、期限直前には、どのツアーでも必ず説明会を開く。また機会があったら、これに懲りずまた皆既日食に挑戦したい。